経験を買うという時代について

昨今の消費環境において、経験を買うという表現が見られる。これはどのようなことなのだろうか。リンゴを買う、車を買う、ディズニーランドに行くという体験を買う。

 実はこの中のどれもが経験を買うことなのだ。ディズニーランドはこれはまさに経験を買うことであるがリンゴ一つ買うことも実は経験を買うことなのである。

 これは実は消費行動の価値観を変えるということである。今までは物質そのものを買うことはその商品単体に対して企画や分析が行われたが、体験を買うという価値観においてはリンゴを買う店や時間帯、場所、人、これらの複合的要素によって購入を体験としてとらえるのである。もちろんリンゴの消費もそうである。

 リンゴを農場で買うという体験は特別なものである。それはただ近所のスーパーで買うのとは異なるのである。もちろん金額が同じであってもである。

 自宅の椅子を起点として考えれば、家を出て農場に行ってリンゴを買って家で食すというその一連の流れが特別な体験であり商品なのである。

 そこに目が行くのならば、おのずと現代の消費行動の先端を理解することになる。自宅の椅子から立ったその一切が体験なのである。職場に行って帰るという連続した日々の体験も、車をディーラーに買いに行ってそれを乗りこなす日々も、すべてが体験なのであって、商品の単なる分析ではないのである。学校に通うという体験も同様である。いろんな体験があってどれか一つを選んでいるのに過ぎないのである。

 僕はこのIT社会になってからまさしく日々がツタヤのレンタルショップの様だとも感じている。

どの作品を選ぶのだろうか。そしてそれを面白いと感じるのだろうか。

 

 

 

結果

                   一

 例えば君が傷ついて、くじけそうになった時は、必ず僕が側に居て、支えて挙げるよその肩を。世界中の優しさで、この地球は回っている。今世界の扉を開ける時、愛しさや切なさが、胸に抱いた思いをいつも大切にしている。

 信じる事をやめたら、信じない人の世界に生きる事になるし、そう長くはない人生の中で、自分の価値を信じる事ができなくて、他人と比較して劣等感に苛まれて、苦しくて、弱くて、情けなさと差別的感情に自己嫌悪して、人を酷な目で評価して、資本主義の論理で人情のない世界ではあるかもしれないけど、袂を分かつことになっても、共に働いた時間は永遠だから、思いを持ち続ける事が永遠だから。

 君は何とも僕の事を思ってくれていなかったとしても、惚れてしまった事実を自分だけ持ち続けてもいいけど、思いを伝える事が上手じゃなくて、結局は自己完結して空回りして、いつしか喪失感を持ち続けた人生になり、次第に側には誰も居なくなり孤立するだろう。 

 社会に貢献する中で、信頼関係が築かれる中で、責任を果たし共有し、共に時間を過ごしたかった。存在するためには代償を払わなければならないということを学べて良かったのではないかと今では考えるようになりました。

 信頼を得るためには、努力をして実績を挙げる事が最善の近道だってことで、遠回りが近道であること、即時的なものなんて自己欺瞞に近い過ごし方と同じで、自己と対峙せず、性の苦しみの意味と価値を考える事が今まで一度も無かった。

 自分のことで頭が精一杯だったんだ。どうして立場を相手の身になって考える事が出来なかったのかと思うと、今は甚だあきれるばかりです。迷惑ものは孤独で居ればいい。貢献できない人間は引き下がって家に居ればいい。相手だって職場に通い続けるんだ。人生があるんだ。引く手数多なんだ。努力して相手のことを思って生きていくことが出来る人間がどれほどこの都会の中でいるのか。社会で活躍している人は他人の幸せに向かい合って居るに違いないし、利用と搾取は不信の賜物だからそんなものに溺れる奴は死ねばいい。

 僕は愛を語る事なんて出来やしないしそっとしておきなさい。迷惑をかけてはいけません。人権を侵害しているのですから。正直、遠く離れる事ができて緊張感が解れています。いつ迷惑をかける行動に出るのか。思いを伝える事なんて他人から見れば迷惑極まりないし、無情で糞だよ。だけど事業に前向きに取り組み、売って売って結果を残すしかないし、真面目に社会と向き合う中で、愛する人と自然に思いを通わせ、縁を残す。

 女性が感じている性の苦しみ、お産の苦しみを、産婦人科の近くで育ちながら全く思う事も無く、性格の有り様は劣悪。当然ながら認められる事なんてあるはずがない。君は途絶えるしかない運命なんだ。悲観的にならなくとも、一から、いや零から自分が社会に与えられることを考え、日々実践して生きる他にないのである。

 信じる事をやめて精神が堕落して、道筋を立てて生きる事ができなくなった人間の末路がそこにはある。そして意味の無い事に熱中する。希望を持つ以前に当然倫理観と礼儀の問題で、犯罪者扱いされても当然である。瞬時の快楽を求め、苦しみの無い、無責任に搾取するクズでしかない。

学歴

 就職して企業で働き始めると社内や取引先など様々な人間と関わることになる。それが社会人生活だ。営業職であれば日に何件も客先を回るのだから、名刺も何枚も交換して様々な人間と会話を交わす。

 営業ではまず相手に顔と名前を覚えてもらうことが何よりだ。その逆も然りで、相手の顔と名前を覚えてどのような人物か、何が好きで社内での購買意思決定者なのか、つまりキーパーソンなのかを把握することが大事である。そうしてそれから提案力や交渉力の出番になる。このような仕事に求められる対人スキルは折衝力であったり相手の望むものは何か考える想像力であったり、人心掌握術的な知性であったりするが、これはおおよそ天賦の才であって、学校の授業でこのような知性の習得を目的としたものは存在しない。強いて言えば演劇の授業でもあったらそうであろうか。あと部活動も良い習得の場となるが、これはいわゆる授業とは言わない。

 社会に出ると大学の授業内容というものが、文系に限って言えばだが、いかに不必要なのか思い知らされる。当然の事だが、大学の4年間という時間を有益な労働に変えられるのであれば全くもって社会的成功の手助けになるはずだ。そもそも日本の大学教育は形骸化していると時に各方面で言われるように学生にとっては茶番そのものであり、その規律の求められない環境から、怠けて堕落してしまう危険性が非常にあり、社会人になった頃には大学に合格した時よりもはるかに退化した人間に成り下がる危険性もはらんでいる。

 そうつまり仕事の出来不出来の判断を下す時に学歴は大概に関係ないということである。中には学歴もあって仕事もできる人間もいるが、結構な割合で大学名と仕事の出来が反比例することも多いという。その逆も然りで、いわゆる現場叩き上げの人間や学歴はないが仕事が非常にできる人間も多く、そのような人間は当然頭角を現してマネジメントの地位に昇ることにもなり、そうしていわゆる学歴不要論を飲みの席で主張するのである。

 結論から言うと文系の学歴は不必要だからこそ取得するのであるということだ。何をおかしい事を言うのかと思われるかもしれないがそういうことである。  

 なぜにそんなものが社会で大股広げて座っているのかというと、学歴は貫禄づけとしての意味合いと、一定の忍耐力の証として機能するからである。それだけである。ほぼその価値は貫禄づけのためだけに存在し、身のない権威付けのために尋常もない努力をして東大慶大を目指すのである。

 まだこの一流校の人間は人間的に練られていることも多く実際に優秀なことも多いのだが、それ以外の、いわゆる単なる大卒は実にタチが悪いと言える。プライドだけ高くて使い物にならないと即レッテルを貼られる人間が多くいるのである。そもそもペーパー上の競争であって仕事の出来不出来と関係しなければいけないわけではない気もするのだがそういう事である。また人間は身分だとか考え始めると途端に程度が下がる生き物であり、また名誉や身分ほど時に価値があると思われるものもないからこそ厄介である。

先日、とある自動車評論家が一名亡くなられた。

 先日、とある自動車評論家が一名亡くなられた。そんなニュースが夕方テレビで流れていた。人それぞれ興味の対象は異なるであろう。気にしない人はああそうなんだあ位で受け流して数日で忘れている話題かもしれない。しかし僕はこのニュースはとても印象に残ったのである。

 箱根のターンパイクでポルシェ911を運転している最中に単身自動車事故を起こしたのであった。業界では著名な方で、自動車賞の選考委員でもあったそうだ。どうも運転中に何かしらの理由で挙動が乱れ、ガードレールを突き破り桜の木に衝突して自動車は大破したのだ。

 この箱根のターンパイクは私企業が運営管理する法律上の私道に当たるそうで、比較的速度への取り締まりは厳しくない区間なのだそうだ。だからこそ業界人が自動車を様々な目的で走らせるのだそうだ。事故原因には諸説あるが、桜の花びらで車輪が空転スリップしたとの噂もある。

 ポルシェの自動車は ドイツ自動車産業が持ち得る、その時代の最高の技術と情熱によって作られる。そしてその開発の舞台は世界中のサーキット、公道レースの場である。

 過酷な自動車レースに勝つために技術開発が行われ、その輝かしい戦績を飾ったレーシングカーを公道用のスポーツカーに仕立てるという手法で作られている。一般的に、自動車メーカーが乗用車を製造するのとは全く異なったアプローチによって作られるのである。そうして造られたこの最高技術の結晶は世界中で賞賛を浴びる最高峰の工業製品として世界中のドライバー、自動車好きから愛好されるのである。

 そしてこの事故車両はレース走行も可能なサーキット仕様であるGT3というモデルである。NAエンジンながら大排気量車で獰猛な加速を見せる。もうこのスペックの自動車は日本の道路事情においては全く不必要な高性能を備え、パワーを持ち余してサーキット以外では使い道もないような高級車だ。

 箱根のターンパイクでも恐らくフルパワーでは十分に使いこなすことは難しいであろう。僕はポルシェを一度も運転したことはないからそのような人間がとやかく言うのはどうかと思うが、どれだけ素晴らしい走りをするのだろうか、試乗動画をいくつか見て見てもあらゆる自動車評論家が軒並み嵐のように賞賛するのである。一体全体どんな自動車なのだろうか。著名なハリウッド俳優も何人かポルシェで事故を起こして亡くなっている。これをしてロマンとは甚だ不謹慎ではあるが、それほどのステータスと魔力があるのであろう。