学歴

 就職して企業で働き始めると社内や取引先など様々な人間と関わることになる。それが社会人生活だ。営業職であれば日に何件も客先を回るのだから、名刺も何枚も交換して様々な人間と会話を交わす。

 営業ではまず相手に顔と名前を覚えてもらうことが何よりだ。その逆も然りで、相手の顔と名前を覚えてどのような人物か、何が好きで社内での購買意思決定者なのか、つまりキーパーソンなのかを把握することが大事である。そうしてそれから提案力や交渉力の出番になる。このような仕事に求められる対人スキルは折衝力であったり相手の望むものは何か考える想像力であったり、人心掌握術的な知性であったりするが、これはおおよそ天賦の才であって、学校の授業でこのような知性の習得を目的としたものは存在しない。強いて言えば演劇の授業でもあったらそうであろうか。あと部活動も良い習得の場となるが、これはいわゆる授業とは言わない。

 社会に出ると大学の授業内容というものが、文系に限って言えばだが、いかに不必要なのか思い知らされる。当然の事だが、大学の4年間という時間を有益な労働に変えられるのであれば全くもって社会的成功の手助けになるはずだ。そもそも日本の大学教育は形骸化していると時に各方面で言われるように学生にとっては茶番そのものであり、その規律の求められない環境から、怠けて堕落してしまう危険性が非常にあり、社会人になった頃には大学に合格した時よりもはるかに退化した人間に成り下がる危険性もはらんでいる。

 そうつまり仕事の出来不出来の判断を下す時に学歴は大概に関係ないということである。中には学歴もあって仕事もできる人間もいるが、結構な割合で大学名と仕事の出来が反比例することも多いという。その逆も然りで、いわゆる現場叩き上げの人間や学歴はないが仕事が非常にできる人間も多く、そのような人間は当然頭角を現してマネジメントの地位に昇ることにもなり、そうしていわゆる学歴不要論を飲みの席で主張するのである。

 結論から言うと文系の学歴は不必要だからこそ取得するのであるということだ。何をおかしい事を言うのかと思われるかもしれないがそういうことである。  

 なぜにそんなものが社会で大股広げて座っているのかというと、学歴は貫禄づけとしての意味合いと、一定の忍耐力の証として機能するからである。それだけである。ほぼその価値は貫禄づけのためだけに存在し、身のない権威付けのために尋常もない努力をして東大慶大を目指すのである。

 まだこの一流校の人間は人間的に練られていることも多く実際に優秀なことも多いのだが、それ以外の、いわゆる単なる大卒は実にタチが悪いと言える。プライドだけ高くて使い物にならないと即レッテルを貼られる人間が多くいるのである。そもそもペーパー上の競争であって仕事の出来不出来と関係しなければいけないわけではない気もするのだがそういう事である。また人間は身分だとか考え始めると途端に程度が下がる生き物であり、また名誉や身分ほど時に価値があると思われるものもないからこそ厄介である。